「猫神」のうつ病日記(その1)30代前半の今になってやっと『前を向いて人生を考える(建設的な人生)』と、いう意味が判り始めました。20代は、人生を終わらせるのに必死でした。 10代後半、過去を呪い怨んで生きていました。 10代前半、自分の存在について考えていました。 それ以前は、耐え続けました。 ただ、自分が良い人と思われる為に演技することだけは怠りませんでした。 うつ病と診断されてから、早十年が経ちました。カウンセリングを受け、入院もし、うつ病にも慣れてきました。うつ病を経験として楽しんでいます。 うつ病経験者として私は、心を痛めている人の役にたちたい、助けになりたいと考え続けていました。 その考えは今も同じですが、考え方の方向が間違っていたように思えます。 自分が、慰めが欲しかったように、相手を慰める事に集中していました。 それは結果として前進(治癒)ではなく、停滞でした。 物心が付く頃、私は既に人前で『話す』ことに恐怖を覚えていました。 あまりにも当たり前の感覚だったので不思議には思いませんでした。 ある日、幼稚園で転んで膝をすりむきました。 先生に言うことも出来ずにいたところ、一つ年上のまたいとこが気付き先生の所に連れて行ってくれました。先生に何も言えない私に代わって「怪我した」と、言ってくれました。 言わずにすむなら・・・と、思っていたわけではありません。自分のことだからと、一所懸命に話そうとしました。 しかし、出た言葉は「血が出た」でした。 先生は私がしゃべったことがとても嬉しかったのだと思います。 その場にいた先生全員が一斉に「えらかったね」「よく言えたね」と、褒めるのです。 私としては、自分のことなのにこんな事しか言えないと、責めていました。 それなのに先生は褒めるのです。私は、責められるのを覚悟していたのに・・・。 私には、褒められた喜びよりも、想っていた事と違う事が起きた怖さのほうが大きかったのです。 その時、『話す』だけでなく、声を出す恐怖も覚えました。 幼稚園時代、ずっとこんな想いをしていたわけではありません。 園児が料理をするイベントがありました。 料理は卵焼きとウインナー炒めです。 ただし、七輪で作ります。 そして卵にはすでに味付けがしてあり、フライパンには油をひいてもらいます。 順番を待ち、私の番になりました。 卵をしっかり溶きフライパンに流し入れます。 火が通り始め巻いていきます。 『上手に出来た』体中に喜びが駆け巡りました。 『ウインナー炒め、フン、こんなの赤ちゃんでも出来るわ』得意満面で自分の席に着きます。 そして周りの子を見ました。 『失敗してる、馬鹿じゃないの』完全な見下し。 秋の体育大会は小学校と幼稚園の合同です。 早生まれの私には徒競走はとっても苦手。 園児の種目は障害物競走。最初に平均台の上を走ります。 『落ちた!』みんなの後を必死で追います。 次は網をくぐる。 『何とか追いついた』最後にマットの上で前転。 『みんな、でんぐりがえりへたくそ』皆を後ろ眼に堂々の一等。 私は優越感に浸りました。 感情と栄養の換算式 私の中の感情は健全ではありません。 喜怒哀楽、どれをとっても風邪を引いているようです。 その中で、肺炎を起しているのは『怒』です。 ふと、私の中から怒りがこみ上げてきます。 主治医から教わり良い兆候だというのは解るのですが、なかなか不快です。 とりあえず怒りの感情をそのままにしてじっとしていました。 その時、何故か感情と栄養の換算式が出てきました。 ここで申し上げておきますが、私は栄養士ではありません。 まず、今私の中に存在する『怒』は、砂糖のような即効性のあるブドウ糖。 怒りはそのまま『行動』につながるのではないでしょうか。 『行動』といっても動く、始める、発想、出発というような意味としてとらえて下さい。 私は怒りという感情を毛嫌いしていましたから、自分の中に怒りが生まれると無視しようと努力てきました。 しかし、感情を完全無視することは不可能です。 怒りが生まれる→無視しようとする→怒りは成長しストレスになる。 と、いうようなことになります。 さて、私は怒りが生長している時、よく部屋の大掃除をしていました。 まあ、大掃除の前にこの上ないほど早くちらかしていましたが・・・。 他にも、外に出ることが怖い私が散歩したりしました。 ものすごく手間のかかる料理を始めたこともありました。 ただし、途中で挫折し完成したことはありません。 このようなことを考えると、『怒』という感情は私にとって必要不可欠な感情です。 しかしながら、過ぎたるは及ばざるが如し、というように多すぎても害になるので気をつけましょう。 私は決してうつ病に甘んじるつもりはありません。 治したいのです。 何に怯えることもなく、演技をすることもなく、人生を『私』として歩みたいのです。 他のうつ病患者さんが『私』と同じでないのは知っています。でも、もしかしたら、これで前を向くきっかけになったら、嬉しく思います。 |